今、目の前で妻が布を裁断し、バッグを作ってます。
私自身は子どもの頃、家庭科で作ったエプロンのポケット刺繍がトラウマで
裁縫というものには全く気が向かないのですが、妻が娘たちの巾着やテーブルクロスを縫っているの見るの好きなんです。
他にレザークラフトの職人さんや、藍染めの職人さん、他のジャンルの職人さんが商品や作品を造り上げていくのを見るのも好き。
バーテンダーさんがシェイカー振って繊細なカクテルを作ったり、丁寧に氷を削るのを見るのも好き。
そして私もコーヒー焙煎士という職人なワケですが。
今でこそ、人の手から何かが生まれる作業を見るのは好きなのですが
子どもの頃、母が私の手提げ袋や巾着を縫ってくれたのに
これほど注目しなかったのは何故なんだろう、もっと見ておけば良かったと今さら後悔したりします。
当たり前としていて、きっと丁寧にもありがたいとも思わずに扱っていたんじゃないかと思うと切なくなります。
だけど、人間て慣れるもので、最初感動、感激していたものも、いつもあり続ければ
そのありがたみを忘れて当たり前になり、気も大して払わなくなる。
そして失って後悔するんですよね。
何度繰り返しても、やっぱりまたやってしまう。
親がしてくれたこと、友人がしてくれたこと、元恋人がしてくれたこと、、、
でもなんか、そういうありがたみみたいなものを本当の意味で噛み締められるようになったのは
子どもと生活するようになってからな気がします。
妻が作ったもの、親が買ってくれたもの、誰かから貰ったもの
子どもってびっくりするくらい不器用で、そんなつもりなくても行動が雑に見えてしまう。
いくら手を混んで料理を作っても、あっという間に平らげてしまうか、嫌いなら嫌いで食が進まない。
言葉を選んで叱っても、また同じ事を繰り返す。
最初は「こんなにしてやってるのになんだ!」
なんて思って(いる)ました。
でも、同時に自分の親のありがたみに気づいたんですね。
大人になり、親も歳をとり、自分で稼ぐようになった時に、その苦労やありがたみも分かってきていたけど
真の意味では、自分もまた親となり、子どもを育てるようになったときに愕然とするくらい分かるようになる。
もともと持論として、「子どもが子どもらしく過ごせる時間は限られているから、その時は精一杯過ごさせてやるべき」
というのがあります。
成長すれば嫌でも考えたり悩んだり、大人のややこしい事情とか分かったり体験する時がくる。
それまでは子どもの感性を大切にしてやりたい、と。
私がそう、育てて貰ったんです。
子どもの頃は暗くなるまで思いっきり遊び、イヤイヤ勉強をして、やりたいことに打ち込んだ。
そんな時期があったからこそ今の自分があるのだと。
そういうことに気づかせて貰った子どもたちに
たまに思考回路が謎過ぎて頭を抱えたりするけど
本気で腹がたったりもするけど
やっぱりありがたいです。