このブログのタイトルをどうしようか考えたとき
ちょうど最近、大人になって初めてオーケストラに乗ったときの曲が頭が離れなくなっていた時でした。
その曲はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」でした。
チャイコフスキーの最後の交響曲です。チャイコフスキーが指揮を振って初演を終えた9日後に、彼は亡くなっています。
ちなみにチャイコフスキーの最後の室内楽曲弦楽6重奏「フィレンツェの思い出」も弾いたこともあり、こちらは思い入れが強く、彼の生涯に想いを馳せたりしました。
自分が好きな作曲家だからもあるのか「悲愴」は楽譜が手元に来たときは音源聴いてもイマイチでしたが
あっという間に引き込まれました。
悲しみというのはこんなに沢山あるのかと、深さや色、空気、個々の楽器の音で思い知らされる。
しかし「悲愴」という意味のpathetiqueはフランス語で、チャイコフスキーの表記したロシア語(だったかな?)のそれは
「熱情」という意味もあるそうです。
この曲に標題のような物語やエピソードが含まれているのか、とか彼の生涯についてなのかという疑問については、彼は否定をしていたそうです。
悲しいけれど、熱情も感じられる
熱情そのものに聴こえるのに、かならずどこかに悲しみの香りがする。
明るくても、どこか悲しい。
多分そういうものに惹かれがちなんです。
たいていなら派手に華やかに終わるはずの4楽章も、人の生涯が終わるように静かに終わります。
終焉を告げるような、全体を通して一回だけ鳴らされるドラ。
弾きながら泣きました、実は。
この曲に出会う少し前に、とても大切なひとが星になりました。
今の私を作る、人生の大切な時期にヴァイオリンを教えてくれた先生です。
幼少の頃から最近まで。
音楽的な情感や、琴線に触れる音があることを教えてくれた先生が
この世からいなくなった。
この世にいれば、たとえ会えなくても先生の声が聞こえ、迷っていてもまた道が見えてくる。
勝手にそうやってきたのだけど、実際お会いして顔を見たときに
その支えのようなものは断たれたのだと思い知りました。
叱られることはもう今後一切ないのだと。
そんな失意の日々の中で、ポコッとこの「悲愴」の話はやってきました。
「弾け!」と言われているような気がしました。
そして、なぜこの曲だったのかも分かった気がしました。
これからも楽器を引き続けるために、きっと必要な曲だったのかと。
「悲愴」な私らしさ。
「熱情」を含んだ私らしさ。
自分自身の人生や日常や思考を書いていくには、いかにもだなと思って名付けました。
そんな不思議なタイミングで出逢った曲には
何か意味があるのだと、信じたい。